石橋くんの野菜ができるまで

「石橋君の野菜」ができるまで
JA筑紫青壮年部 石橋利之

みなさんに聞きたい事があります。 「農業から逃げたいと思った事はありますか?」。「私は逃げました」。
「皆さん農業は好きですか?」。「私は嫌いでした」。
私は農家の家に生まれ幼い頃から「農業はいいぞ!野菜作りは楽しいぞ!」 と洗脳されて育ったので何のためらいも無く就農しました。
いざ、就農すると農業は キツイ、コギタナイ、キケン(3K)の労働でしかありませんでした。
だから私は「もう二度と農業はやるか!」と捨て台詞を吐き、逃げました。
遠く、遠く離れた花の都パリへ。

エッフェル塔海外での逃亡生活は知り合いの家に住み、フランス語学校へ通い、アルバイトで皿洗いをやる日々でした。
そんな生活が2ヶ月過ぎた頃、私自身のある変化に気付きました。
新鮮な野菜や珍しい野菜を見ると、 ついつい手にとってしまい「このレタスでサラダを作ったらおいしいだろうな」、
「このトマト、そのままかじってもうまそうだ」などと考えていました。
その1ヵ月後にはもっと多くの野菜が見たいために市場へ出向いていました。
さらに、2ヵ月後にはパリ郊外にある広大な畑を独りで眺めていました。
そこで農業をしている人達がかっこよく見え、「俺もみんなが手にとる野菜をつくりたい」、
そんな気持ちが沸々と湧き日本へ帰ることにしました。
そして、逃亡劇の第一幕は終わりました。

みんなが手にとる野菜を作るため、帰国後どのような農業経営をするかのビジョンがありました。
しかし、いざ始めてみると親から「あれしろ!これしろ!」と指図されるばかりで ビジョン通りの経営や作付けが全くできません。
また、生産技術も未熟だったため生産量も安定せず、収入はわずかなものでした。 「俺はこのままでいいのか?俺の夢見た農業はこんなものなのか?」と、 夢と現実の狭間で不満が徐々に溜まっていきました。
その不満は3年間で爆発し些細な事で親と喧嘩をして「もう三度と農業をやるか!」と心に決め、私はまた逃げました。

今度の逃亡先は福岡市内で、バーや服屋で仕事をしながら気楽に暮らしていました。
そんなある時、大きな転機が訪れました。きっかけは青年部です。
最初に就農した際に青年部に入っていたのですが、
その時の先輩に「お前、フリーターをしてるくらいなら家で仕事をしてみないか」と声をかけられ、
「やりたい事もないしいいか」と、安易な気持ちで働かせてもらうことにしました。

先輩も私の家と同様に親から「あれしろ!これしろ!」と、指図されていました。 しかし、私と先輩には大きな違いがありました。
「親の意見に耳を傾けていた点」と「自分の仕事をしながら指示された仕事もこなしていた点」です。
私は初めて自分自身を客観的に見つめ直しました。
「与えてもらった仕事しかしなかった自分」、 「親に対して不平不満ばかり言っていた自分」、 そんな自分の甘さに気付かされました。
先輩の後ろ姿が独りでは決して気付かなかった事を教えてくれました。
だから私も先輩のような魅力ある農業者になりたいと思い、親と話し合ってもう一度農業をやらせてもらう事になりました。
私の逃亡劇は第二幕で幕を下ろします。

三度目の就農では、栽培した農産物を畑の横で直売し、お客さんから「石橋君の人参甘くておいしかったよ~っ」「あのゴボウ硬くて食えんかったよ」などの話を聞くうちに、 お客さんの望む物を作りもっと喜んでもらいたい、そんな気持ちになっていました。 ふと気付くと、単なる農業という労働が消費者の笑顔をつくる楽しい仕事に変わっていました。
そんな中、また一つの転機がJAの方からもたらされました。

それは有機認証制度の事を教えて貰えた事です。
実際に有機栽培を行っていた私には気になる制度でした。
しかし、有機認証には経費がかかり、取得するかどうかをJAの方に相談すると、
こんな言葉をかけられました。
「JASマークが有っても無くても、石橋君の野菜が変わるわけじゃないよ。
でもね、JASマークを付ける事で、石橋君の野菜へのこだわりが、消費者に伝わるんじゃないかな?」と 言われ、 JASマークは私の野菜へのこだわりを消費者へ伝えるメッセージだと気付かされ、 取得を決意し、なんとか認証を得る事ができました。

取得後、一年間は何も営業努力をしなかったので利益は経費が増えた分少なくなりました。
「私の野菜が消費者まで届いていない。このままではダメだ」と思い、
一大決心をし販路拡大のためスーパーやデパートへ営業に回りました。
現実は厳しく、電話で断わられ、訪問しても門前払い、話を聞いてもらえても取引には結びつきません。
何件も何件も営業して、やっと取引させていただけるお店に巡り会いました。
しかし、その店で私の有機野菜を気に入っているのは野菜担当のマネージャーだけ、
店長からは「有機野菜?そんなもん売れないよ。大切なのは見た目や、糖度だよ」と憎たらしい事を言われ、
自分の野菜作りの方向性に不安を感じましたが、
私の野菜を買ってもらっていた消費者の「石橋君の野菜おいしいよ」という言葉を思い出し不安を押し殺しながら、
出荷を続けました。
すると徐々にではありますが、私の野菜を求めるお客さんが増えていきました。
お客さんからの「石橋君の野菜、おいしかったよ」、「石橋君のほうれん草はないの?」という声が店長の耳にまで届き、
出荷を始めて半年後には、あの憎たらしい店長の口から「石橋君の野菜を売り場のメインで行きたい」と言っていただけました。

今では、店を通じて消費者との信頼関係を築くことができ、 有機野菜だけでなく一般作の野菜も『石橋君の野菜』ということで取引させていただいています。
私は2度農業から逃げ、3度も農業を始めました。
その間、消費者や青年部そしてJAなどさまざまな人との関わりを持つ事で、やっと『石橋君の野菜』ができました。
『石橋君の野菜』は私の人生のストーリーを表しています。
皆さんが作っている農産物にはどんなストーリーがありますか?思い出してみてください。
なぜ、今の農産物を作るようになったのか。どうやって今の生産技術を身につけたのか。
そこには少なからず消費者、青年部、JAとの係わり合いがあるはずです。私は人との係わり合いを大切にしたい。
『石橋君の野菜』ができるまでたくさんの支えがあった事を忘れない。
だからこそ、これからも野菜作りにこだわっていきたい。しつこいようですが、もう一度聞きます。

「皆さんが作っている農産物にはどんなストーリーがありますか?」

自分の農産物が出来るまでを思いだされた方、私と共に農業にこだわり充実した農業人生を送りましょう。

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